kokkinnの日記

時間や意識、輪廻転生や悟りなどのスピリチュアル系のブログです

時間と意識

意識というのは、脳内の錯覚の現象であると考えてます。普通の生理現象のような進化の表れだという。おそらく言葉を使えるようになり、意識も、もともとなんらか存在してたものが認識できる形になったのだろう。こう考えると、生命や人類、意識とは偶然の産物でなんら特殊な存在ではないのではないか。

しかし、わたしはそれでも意識は特別だと思う。それは、以前世界の研究者が生物が認識しないかぎり、宇宙は存在しないと説があったように、この世の真実は意識であり、それを意識してるかぎり、それが真実である。という性質は変わらないし、輪廻転生はやはりあると思う。結局、意識がないとこの世は存在しない。いまここにいるわたしがこの宇宙を感じているのであって、他の人が感じているわけではない。それは他の人にもいえる。同じ空間にいるのに。他の人とは時間軸が違うのだ。

もしいまのわたしが死んだら、世界はどうなるのか?わたしの考えでは死の世界は存在しない。ゼロというのはもともと存在させることがおかしな存在である。言葉が生み出したマジックである。わたしが生まれたときを考えてほしい。意図して生まれたわけではなく、いつの間にか存在していた。意識をもっていた。こんな感じである。

わたしが死んだら、世界はつづいていくのか?だとしたら、いつまでつづいて、宇宙がほろんだら、ずっと暗黒の世界なのか?だとすると、たまたま今はそれが起こるまえの一瞬の世界なのか?なぜ、それが今が、無の世界でなく、今なのか。わたしが今いるのは何百億年のうちの数年の奇跡の時間なのか。
時間は流れてゆくけど、わたしが死んだら基準はどうなる?どういう速度で流れていくのだ?物質しかない世界なら誰も世界を感じとれない以上、時間の流れもわからない。きっと時間なんてない。物質しかいなくなったら、一瞬で宇宙の終わりまで時間は到達するに違いない。そう考えると、時間は世界を感じるものが作りだしているのであろう。
この世は本当はもうすでに終わっている。
始まりから終わりまで完結してしまっている。物質世界では。
ただ、この意識のおかげで時間を感じられる。眠っているときを考えてみてほしい。
起きたとき、一瞬で時間が進んでいる。
死ぬのも一緒。死んだら起きるまで一瞬で時間がすぎる。

この世はすでに完結してしまっているが、意識のおかげで今を生きていると錯覚できるのだ。輪廻転生とはそういうことで、この世は完結しているが、何度ももしかしたら同じ人生を同じ感覚でやり直しているかもしれないということ。そして、この世のなかを感じる存在というのは一つしかない。
複数の生物はたくさん同時に存在するけれど、感じられるのは一つだけである。
この意味するところは、コペルニクス的転回で、意識が一つではなくて、世界が一つと考えた方がいいのかもしれない。

この世のなかは無くならない。もうすでに物質世界では時間は完結してしまっている。
だから、わたしが死んでもこの世界は無くならない。存在している。しかし、存在するためには、意識がいる。いま、ここにいるということをつねに感じる存在である。それは、またわたしになったり、違う人物になるかもしれないが、そうすることで、世界は常に存在し続ける。

わたしという存在は、死ぬことで自分という殻から抜け出せる。なにものでもなくなる。
宇宙と一体化する。しかし、宇宙はすでに始まりから終わりまで、内包している。存在してしまっている。
わたしは、無にはなれない。なぜなら、わたしという存在であったから。わたしを知ってしまったから。だから、宇宙になっても無という存在をしらない。いつのまにかまた、わたしになっている。それは全然違うわたしとして別の生活をしていくだろう。
時間なんて、ないのだ。いったりきたりの繰り返しである。
そのたびに新鮮なわたしで人生を送る。もう何度、この世界を一人で感じつづけているのかわからないが。

この輪廻転生観は、遍在転生観という渡辺恒夫先生が述べている世界観と一緒ではないかと思った。

もし、この世界観が理解している方がいたら教えて欲しいです。

輪廻転生の新説

この世の中、皆さんが考えてることというと、自分が死んだあとはそれで終わりだというふうに考えてしまうのが普通ですが、ここで言いたいのはそうではなく、自分は続くということをいいたいのです。

ほんなばかなですが、われわれが死んだという状態と死んでいないという状態の違いは生物学的に心臓が止まっているかいないか、でしょうけど私は意識があるかないかを重視しています。

この意識、なぜ大切なのかというとわれわれが生きているということを感じさせてくれるからです。

生を再確認させてくれる存在。

この機能がなければ自分が生きていても、他人が生きていると判断しても自分が生きていると判断できない。矛盾である。生きているとは自分が自分を認識できる状態に戻れる予定か、戻れる可能性があるなら生きているといえるかもしれない。なければ自己の存在を肯定できない存在なので、生物であっても人間ではない。

この意識というところから世界を見ることで分かることがある。死ぬと意識がなくなるとということ。

でも永遠に意識がなくなるのだろうか、その世界を想像して欲しい。

永遠に沈黙した世界が流れてもおかしくないが、そうではなく現在われわれはこうしている。

この世界が未来永劫続くなら今は何年目なんだ?

そうではなく、いまわれわれが生きているのは偶然ではなく必然である。

意識の性質がそれを読み解く。

意識の性質とは今ここに唯一の存在であることです。

今ここで世界を感じている存在は自分しかいない。

しかし、他人にも自分は存在するだろう、その他人の自分はなんなのか?

時間軸がずれているのだ。

時間は本来、存在しない。

意識が秩序づけているため、時間を生み出した。

この世はすでに時間が過去から未来まですでに存在している。

意識をもつ存在だからそれを見れないだけ。

だから、死んでも過去も未来もないので、すでに死んだ自分は存在していて、でも生まれた自分も存在している。

意識が自分が生きていることを感じさせてくれる。

常に繰り返している、自分の人生を。

そのたびに新鮮な気持ちで人生と向き合っている。

わたしはもう一つ踏み込みたい。

すでに全ての世界は存在しているということだが、

それでも意識は新鮮な気持ちで今を映す存在である。

共感覚、ご存知か。

人類、われわれは皆違う生き物であるが、人類になって進化し、意識をもち生を感じられるようになった。

この意識はわれわれ共通する感覚である。

そして、世界に一つしかない。

われわれは違う生き物だと思っていたが、世界は時間がないということと意識を考えると、同じではないかと思わないだろうか。

意識はいつも一人である。

でもわれわれはたくさん存在している。

時間はない。

もしかしたら、人類になってこの意識を発見できることでわれわれは個人を超えた考え方をみにつけられ、

さらに次の次元の存在になれるのではなかろうか。

 

輪廻転生とシュタインズゲート

 最近、アプリゲームでシュタゲというゲームをする機会があり、やってみたらなかなか面白かったんですけど、sfアドベンチャーというジャンルかな?タイムトラベルものなんですけど、結構リアル指向なのでよかったです。

 

 いろんな興味ある単語がでてきました。セルンとか、フィラデルフィア計画とかいろいろ。その中で、量子テレポートという単語がでてきたんです。量子2組、双子のような性質をもち、片方を観測すると片方の性質が決まる、影響を及ぼす。これはどんなに距離が離れていても観測した時点で影響を及ぼす効果があるそうです。

ゲームの仮想現実ではなく、実際に実験が行われており、検索してもでてくる内容です。

興味を持ったのは、テレポートではなく観測した時点で効果を及ぼすという点です。どうやら、観測するまでは量子の状態は不確定らしいです。

 
観測というのがキーワードで、これは自分の考えている世界観と似ている、或いは説明しやすい単語だなと。二つのペアとなっている量子にはそれぞれ相反する性質をもっていて、たとえばaとbだとすると、観測するまでは量子は性質が決まっていない状態、どちらの状態でもあるという状態なのですが、片方を観測し、aであることがわかると片方はbという性質になるそうです。

観測するまでは不確定な状態、これはわれわれの宇宙、世界を見る目と同じです。

 

 われわれが宇宙、世界を見ているときはその世界は秩序を持って存在するが、見ていないときの世界は宇宙はどうなのか?量子同様、不確定な存在であると考えます。つまり、観測したときはじめて宇宙や世界は時間をもち、その時間に応じた空間をもつ。観測していないときの宇宙、世界は時間も空間も同時に存在し、無秩序な状態。過去も未来も同時にそこにはある。われわれ観測者がいて、時間がうまれ世界が秩序をもって現れる。もし、観測者がいない宇宙なら岩石ばかりの惑星で始まりがあって終わりがあるなら、その時間の長さはどうやって推し量れるのか?その何億光年という長さもすぐに終わりを迎えるだろう。だから、観測者がいない世界、宇宙は、始まりも終わりもすでに含んで存在している。不確定な無秩序な存在がすでにあって、観測者が現れたときだけ、その時間の宇宙、世界を見せてくれる。これが、わたしの世界の解釈である輪廻転生の解釈に繋がっているものです。

 

観測者がいない世界はすでに始まりも終わりも内包して存在していて、観測者が現れたときに性質が確定する、そのときの世界を見せてくれる。宇宙、世界は始まりも終わりもすでに内包して存在するなら、わたしが死んでなくなったとしても宇宙、世界はなくならない。しかし、観測者の出現を待たなければ宇宙、世界の存在はない。だから、永遠にこの人生を繰り返す。繰り返しても、過去の記憶があるわけじゃないから、いつも新鮮な気持ちで人生に挑む。なんか、ジョジョって漫画にあったかも。あと昔、ツァラトゥストラ読んでみたけど、ニーチェ永劫回帰説もこんな感じだった。世界はなくならない、しかし観測者がいないとその姿を表さない。でも、観測者は死ぬ。だが時間の概念もない始まりも終わりもすでに経験ずみの世界はなくならない。そうなると、死ぬってなんだ?ってなるけど、死んでも世界はなくならないから、また普通に過去からやり直し。それを未来永劫繰り返す。自分の人生大切にしなきゃ。でも他人も大切にしなきゃいけない。それは、観測者が一人だから。世界を感じとれるのはいつも一人。自分が死んでも、世界はなくならない。観測者を待っている。そして、また観測者になる。孤独だけど、世界を感じとれるのはいつも一人。未来永劫、一人しか感じとれない。それは、今の自分以外の人として、感じとることになるかもしれない。隣人、愛してる人、嫌う人、富を得た人、貧しい人、或いは動物。輪廻転生、自分以外のものになる以上、自分以外も自分のこととして、大切にしなければならない。隣人を愛せよ、イエスキリストの言葉も現実見を帯びてきたのではないだろうか。

 

人類平和って難しいし、人に優しくってそんなことして何の得があるんだって思うかもしれないけど、この輪廻転生観あながち間違いじゃないと思うし、こんな考え方を体得するのが、仏になる道だったのではないかと。他人も自分であると信じられる、そんな人こそ聖者や仏として尊敬できると思います。昔はいたんでしょうね。いまは、分かりません。

輪廻転生、永劫回帰

 世の中、

観察者は1人しかいない

自分が死んだら、どうなる?

同じように時間が流れるのか?

いな、時間はなくなる。時間のはてまで存在する世界

始まりと終わりが同時に存在する世界になる。

だって、観測者がいないから

われわれが世界とよんでいるのは、

観測者がいる世界。

 

われわれは常に一人で世界を感じなくてはいけない。

死んだあとも同じ。死んだらおわりではなく、世界は常に目の前に広がっている。

だから、自分が死んで違う自分になったとしても記憶もないし、違う自分だとはわからなくて当たり前。

だけど、死んでも世界はなくならず、必ず世界を意識している存在になるのだから、それは逃れようのない業といわざるをえない。

常に一人の存在である。

 

常に一人、違う自分になったからといってそれまでの自分、今の自分に責任をもたなくてもいいのだろうか?

常に一人だから、肉体や記憶が別人でも一人しか世界には存在しない以上、そのときの自分は自分である。

別の人物も過去または未来、自分である。時間というのはないのだが。

同時存在。

変化

 変化。世の中は絶えず変化していて、諸行無常の世界です。そんな中、われわれには移り変わる世の中で対応が求められる。いろいろな価値観の中、正しいこともわからないまま対応を迫られることになる。なにが正しくてなにが間違っているのかわからないままその選択肢を選ぶこともある。 
 
 さきにも述べましたように世のなかが変化していくことでわれわれにも変化が求められます。ただそのなかでもし変わらないものがあるなら、この世のだれもが絶対信じられるものがあって それをよりどころにこのかわりゆく世の中をみつめることができるなら不安は少しでも減らせるかもしれません。    


 ではその普遍にかわらないものなどあるのか、あります。 


 生きているということ。わたしはまず生きていることに理由や意味を求めました。なぜ生かされているのかとか、生まれている以上、なにかやるべきことがあるのではとか、でも違いました。「生きている」ということがまず初めに来るのです。「生きている」という事実がまずはじめにありきなんです。 


 世の中のあらゆるものを疑ってもどんなにいろいろなものが変化しようと変わらないものが、生きているという事実。つまり今までの考え方の発想の転換であって、例えば昔、地球という星がただ唯一の存在ではないかと思われたが、時代が変わり宇宙の存在を知り、太陽系や銀河系の存在がわかることで唯一ではなくなったことのように、人間自身特別ではない、そして生きているということもさして特別ではないのだ。ただ、生きているという前提でこの世の変化も感じられることができる。生きていなければ変化することもない。

無とは

死のイメージは、睡眠状態から覚醒にいたることのない状態である。世界観は無というより、ほんとうに存在しないものである。

 

無とはどういうものであろうか?存在しないものを言葉で表すことで、なにか不自然さが生じることはないだろうか?

 

有るものが無くなったとき、無という言葉をつかう。これはもともと有ったものと対比して使う言葉だ。

 

有ったものが無くなる、1が0になる。そういう状態を表す表現が無であり、死というものも同様、生の状態から死の状態になれば、無になる。そう考えてしまいがちである。

 

しかし、わたしがいいたいのは、その有ったものに固執しない無である。空箱の中を覗いたときに何も入っていない状態も無というならば、それである。もともとなにもなかったのである。死とはそういう状態のことをいう。

 

そうはいっても生の状態から死の状態になれば、もともとの生であった状態をどうしても意識してしまう。しかし、死んだ状態であるなら意識していた自分もいなくなるので生の状態を意識できなくなる。だから、死ぬことで意識するもの、すなわち世界をみているものがいなくなるのだ。

 

これは、たとえば、有ったものが無くなるとき、有ったという原因が必要になる。有ったという記憶とか過去が必要になるのだ。それによって、喪失感、無くなったということが確認できる。

 

しかし、死ぬ状態は特殊で、その有ったいう記憶や過去をもつ自身がいなくなることでもともと無かったということになる。

 

死とは喪失感があるものであるが、もともと有ったと考えるからで、有ったという執着を捨てて、正しいこころで死の状態を感じれば本当の死の状態を感じられるはずである。それは、恐れることのないものであり、喪失感も感じない。

死後の世界と睡眠

前回、睡眠時に時間がとぶという話をしました。まあようするに、記憶がなくなるといってもいいかもしれません。

 

これは、死ぬということもあてはまるようにおもえます。つまり、睡眠時の感覚が死んだ後の世界ということであり、睡眠後、目覚めることがないものが、死ぬということである。

 

 寝たあと、起きたときは自分が寝ていたということを自覚できます。しかし、寝たあと起きることがなければ自覚することができません。死とはこういうものであり、自覚することができないものである。

 

死を自覚することができないという表現が大切で、死とはけっして、永遠に真っ暗な世界が続くというイメージではない。

 

睡眠の場合、覚醒する作業があることで、無の時間があったことが自覚できる。この無という表現は、精神世界では睡眠時はなにもない世界であるが、物質世界では時間だけが過ぎていることがわかるので、それと精神世界を比較したとき、精神世界では無であったと自覚できる。

 

ちなみに、この精神世界というのはこころの内面の世界のことで、物質世界というのは五感を通して感じることができる世界である。

 

睡眠から覚醒したときは、こころの内面は眠る前の記憶からしかないので、時間がとんでいるという表現がわかりやすいかもしれない。この時間については、五感を通して感じられる物質世界からでないと睡眠時の時間の経過はわからない。

 

話を戻すと、死の世界は寝ているときの状態に近いといった。しかし、この寝ている状態という表現で気をつけていただきたいことがある。けっして覚醒することがない睡眠状態ということである。

 

睡眠から覚醒することにより、時間の経過を知ることができる。そして、寝ている間の精神状態は時間だけ過ぎ、そのあいだはなにもなかったと自覚できる。無であったと感じることができる。

 

この無であったと感じることができるのが、いけないことである。睡眠はそれでいい。しかし、死は違う。無という表現はできない。

 

そもそもこの無という言葉が難しいものだと思う。 寝ている状態から覚醒したときに感じる眠っている感覚が死ではない。それは、時間の経過を感じてしまっているため、無であったことを理解し、その無という記憶が本当は存在しないものを存在させてしまっている。

 

死とは真の無である。睡眠時の無ではない。イメージとしては似通っているのだろうが、死の無は本当に無いので、なにも存在しない。死を迎えた時点でなにもない。

 

こんな感じでブログをつれづれとエッセイ的なものを好き勝手につづっていきます。 よろしくお願いします。