死後の世界と睡眠
前回、睡眠時に時間がとぶという話をしました。まあようするに、記憶がなくなるといってもいいかもしれません。
これは、死ぬということもあてはまるようにおもえます。つまり、睡眠時の感覚が死んだ後の世界ということであり、睡眠後、目覚めることがないものが、死ぬということである。
寝たあと、起きたときは自分が寝ていたということを自覚できます。しかし、寝たあと起きることがなければ自覚することができません。死とはこういうものであり、自覚することができないものである。
死を自覚することができないという表現が大切で、死とはけっして、永遠に真っ暗な世界が続くというイメージではない。
睡眠の場合、覚醒する作業があることで、無の時間があったことが自覚できる。この無という表現は、精神世界では睡眠時はなにもない世界であるが、物質世界では時間だけが過ぎていることがわかるので、それと精神世界を比較したとき、精神世界では無であったと自覚できる。
ちなみに、この精神世界というのはこころの内面の世界のことで、物質世界というのは五感を通して感じることができる世界である。
睡眠から覚醒したときは、こころの内面は眠る前の記憶からしかないので、時間がとんでいるという表現がわかりやすいかもしれない。この時間については、五感を通して感じられる物質世界からでないと睡眠時の時間の経過はわからない。
話を戻すと、死の世界は寝ているときの状態に近いといった。しかし、この寝ている状態という表現で気をつけていただきたいことがある。けっして覚醒することがない睡眠状態ということである。
睡眠から覚醒することにより、時間の経過を知ることができる。そして、寝ている間の精神状態は時間だけ過ぎ、そのあいだはなにもなかったと自覚できる。無であったと感じることができる。
この無であったと感じることができるのが、いけないことである。睡眠はそれでいい。しかし、死は違う。無という表現はできない。
そもそもこの無という言葉が難しいものだと思う。 寝ている状態から覚醒したときに感じる眠っている感覚が死ではない。それは、時間の経過を感じてしまっているため、無であったことを理解し、その無という記憶が本当は存在しないものを存在させてしまっている。
死とは真の無である。睡眠時の無ではない。イメージとしては似通っているのだろうが、死の無は本当に無いので、なにも存在しない。死を迎えた時点でなにもない。
こんな感じでブログをつれづれとエッセイ的なものを好き勝手につづっていきます。 よろしくお願いします。